2009年06月29日

国家権力による自由の抑圧から国民を解放するところに

当初は、国家権力による自由の抑圧から国民を解放するところに重要な意味があった。基本的人権は、単に「人権」「基本権」とも呼ばれ、特に第3章で具体的に列挙されている(人権カタログ)。かかる列挙されている権利が憲法上保障されている人権であるが、明文で規定されている権利を超えて判例上認められている人権も存在する(「知る権利」、プライバシーの権利など)。

また、権力の恣意的な行使により個人の人権が抑圧されることを回避するため、統治機構は権力が一つの機関に集中しないように設計され(権力分立や地方自治)、個人が虐げられることのないように自由主義的に設計されているといわれる。
学力向上!漢字王国
白い花の花言葉
北の国・北海道マップ
暮らしの知恵袋
ラファエロのタレントになる学校選び
ハンズの野球のツボ
マーメイドの地図探し
ゆかいな塾の先生
炎神でアニメソングメドレー追跡
懸賞の秘密ちゃんねる
健康一番玉手箱
Carタイムへ急げ
芸能界デビューのチャンス
ひだまりの湘南ビーチ
奥様ご用達ご当地グルメ
仕事探しはここからスタート
初心者の投資問題解決!
姉妹の温泉三昧
フラッシュのオーディション参加
省エネルギーのコツを紹介
生活費の節約法
ドライブ計画サポートスペシャル

基本的人権の尊重は、古くは、人間の自由な思想・活動を可能な限り保障しようとする自由主義を基調とする政治的理念であった。政治的な基本理念である「自由主義」は、国家権力による圧制からの自由を意味し、国家からの自由の理念を示すため、「立憲主義」と表現されることも多い。特に、権力への不信を前提にすることから、単に「国家からの自由」ともいわれる。民主政治の実現過程において、国家権力による強制を排除して個人の権利の保障をするための理念として自由主義は支持された。自由主義は、政治的には市民的自由の拡大、経済的には自由政策の維持として表れるといわれている。さらに、自由主義は、個人の幸福を確保することを意図した理念でもあることから、国民が個人の集合体に変化するのにともなって、国のあり方を決定づける理念として把握されるようにもなった。日本国憲法における国家組織の規定も、国民主権の考え方と相互に関連して、自由主義を踏襲している。

2009年06月12日

認知科学(にんちかがく、cognitive science)は

認知科学(にんちかがく、cognitive science)は、情報処理の観点から知的システムと知能の性質を理解しようとする研究分野。認知科学は以下に挙げる諸学問の学際領域である。

心理学 - 認知心理学 - 進化心理学 - 文化心理学
人工知能 - ニューラルネット - コネクショニズム - 計算機科学
言語学 - 心理言語学 - 生成文法 - 認知言語学
人類学 - 認知人類学 - 認知考古学
神経科学 - 認知神経科学 - 脳科学
哲学 - 心の哲学 - 認識論

1950年代後半、いくつかの分野で同時多発的に、人の知的活動を情報処理の視点から解明しようとする研究が現われた。特に1956年に開催されたダートマス会議では、ミンスキー、チョムスキー、ブルーナーなど、後の人工知能研究や認知心理学に大きな影響を与えた研究者が出席し、人工知能をはじめとするいくつかの重要な概念が議論された。この会議を認知科学の発祥と見る向きも多い。

冷戦等の軍事的理由や、AIという用語の一般的な浸透などにより一気に研究が進んだ時期などがあるが、現在は比較的落ち着いている。

認知心理学の分野は、それまで主流であった新行動主義心理学に対する批判のもとに発生したとされる。行動主義的な立場、つまり我々の行動を通して認知の仕組みを探るのではなく、認知のメカニズムについて直接仮定を立ててその妥当性を探ろうとする立場をとるのが特色といえる。
スノーボード
ベジタリアニズム
キャラクター
絵画
甲殻類
潮干狩り
相撲
就学前教育
月経
緩歩動物
エイズ、HIV感染
信越地方
切り絵
鳥類
新婚旅行
盆栽
夜景
御節料理
カーナビゲーション
里山

認知科学に直接関連する言語学は、心理言語学と呼ばれている。 心理言語学には言語学が扱う様々なテーマを元に、実際に我々がどの様に自然言語を獲得し、理解し、生成し、運用するのかという問題について研究がなされており、心理学的手法を元に、我々の言語の獲得や理解のモデルについて仮説-検証がなされている。

一方で、言語学もこの影響を受けており、それまでの論理的に厳密な言語学に、より自然な我々の運用する言語に近い言語モデルの構築というテーマの重要性を示した功績は大きい。 この分野のさきがけとなった主だった研究者を以下に挙げる。

ジャン・ピアジェ
レフ・ヴィゴツキー
ポール・グライス
ジョージ・レイコフ
レイ・ジャッケンドフ

2009年06月07日

ジッポー (Zippo) は、アメリカ合衆国

ジッポー (Zippo) は、アメリカ合衆国のジッポー社 (Zippo Manufacturing Company) が製造する金属製オイルライターの商標である。

このライターは、長い歴史と世界的な普及率の高さからオイルライターの代名詞となっており、またコピー商品までもが大量に出まわっていることから、オイルライターの一般名称としても認識されている。ただし厳密に言えば米ジッポー社の製品以外のコピー商品はジッポーではなく、またジッポー社の製品でもおなじみの金属ケース耐風オイルライター以外の製品もジッポーではない。

高い耐久性・耐風性と永久修理保証を誇る。1932年の発売以来、基本構造にはほとんど変化がないが、外側のケースに様々な意匠を凝らすことで豊富なバリエーションが生じており、世界各国に収集家が存在する。
文房具 楽器教室 宿泊施設 脱毛 地域情報 コスメ 分譲 乗り物 転職 離婚 介護 特産品 アレルギー 食品 資格 ペット 予備校 キャンプ場 メイク 産業 香水 就職 探偵 資産運用 バイク マッサージ 雑貨 審美歯科 サプリ 専門学校 海外 セミナー セミナー 関東 美容整形 動物園 メイク エージェント お祝い ポイント 興信所 マッサージ 仏具 海外留学 結婚 学習 信越北陸 プチ整形 公園 エイジ


1932年 ジッポー・マニュファクチャリング・カンパニー (Zippo Manufacturing Company) 設立(創設者 ジョージ・グラント・ブレイズデル)
1933年 初期型のジッポーを販売(約1500個生産)
1935年 ケンドール向け広告宣伝用ロゴ入りジッポーを製造
これに潜在的市場を見出したプレイズデルによりノベルティ路線が決定される。
1936年 ジッポーライターに関する最初の特許を取得
1937年 1937モデル生産開始
1941年 1941モデル生産開始
1960年 操業開始以来、通算1億個製造を達成
1988年9月24日 操業開始以来、通算2億個製造を達成
1996年4月15日 操業開始以来、通算3億個製造を達成
2003年9月3日 操業開始以来、通算4億個製造を達成 4億個目はアーマーと呼ばれるタイプ

2009年04月24日

ファウルタウンとスコットの虐殺

ファウルタウンは、スコット砦のおよそ15マイル(24km)東の、ジョージア南西部のミカズキ(en:Miccosukee)の村だった。ファウルタウンのネアマスラ酋長は、フリント川東側における土地の使用について、本来そのエリアはミカズキの主権があると主張して、スコット砦の指揮官と口論になった。ジョージア南部の土地が、フォート・ジャクソン条約でクリーク族に割譲されていたが、ミカズキは、自分たちがクリーク族であるとは考えず、また条約に束縛されることを嫌い、さらにクリーク族にはミカズキの土地を割譲するどんな権利も受け入れなかった。1817年11月、ゲインズ将軍は、ネアマスラを差押えるために250名の部隊を送った。最初の試みはミカズキによって撃退された。翌日の1817年11月22日、ミカズキは彼らの村から追い出された。このファウルタウンへの攻撃を、戦争の始まりの日付とする歴史家もいる。元ジョージア州知事で当時クリークインディアン管理官(en:Indian Agent)であったデヴィッド・ブライディ・ミッチェル(en:David Brydie Mitchell)は、議会への報告書に、ファウルタウンへの攻撃が第1次セミノール戦争の始まりであると述べた[20]。

1週間後、R・W・スコット中尉が指揮していたスコット砦への供給船は、アパラチコーラ川で攻撃された。40〜50名の兵士がボートの上にいて、この中には20名の病気の軍人と、軍人の妻が7名、およびことによると何人かの子供が含まれていた (セミノールによって殺された4人の子供の報告があるが、彼らは虐殺の初期の報告では言及されず、またそれらの存在は確認されていない)。ボートの乗員のほとんどは、インディアンによって殺された。1名の女性が捕虜となり、6名の生存者が砦に行った。

経営コンサルタント関連ビジネスコーチサーチ
運送・賃貸関連生活・暮し情報
予防法・介護関連いきいき健康情報
サプリメント・サプリメント関連ショッピング検索ガイド
シャンソン教育ランドガイド
旅館・旅館関連ドライブ旅行COM
若返り・香水関連大人のコスメサーチ
就職・設計施工関連ビジネスジャンプ総合
懸賞・損害保険関連生活紹介ナビ
リフレクソロジー関連医学プラザ紹介

ゲインズ将軍は、フロリダに侵入しないように命令され続けていて、後にフロリダへの短い押しつけを許容するために修正された。アパラチコーラのスコットの虐殺のニュースがワシントンD.C.に届いたとき、ゲインズはスペインの設備をひとつも攻撃せずに、フロリダに侵入して、インディアンを追跡するように命令された。しかし、ゲインズはフェルナンディナを占領した海賊に対応するため、東フロリダに向けて出発した。ジョン・カルフーン陸軍長官は、フロリダの侵入を導くようにアンドリュー・ジャクソンに命令した

2009年04月06日

ネオ・ソウル

ネオ・ソウル(neo soul)はコンテンポラリーR&Bのサブ・ジャンルの一種。ニュー・ソウル(nu soul)とも呼ばれている。1970年代の流行性のソウル・ミュージック(クラシック・ソウル)にジャズ、ファンク、ヒップ・ホップ、ハウスの要素が加わり、発展した音楽のジャンルである。様々な音楽とクロスオーヴァーしていることから、明確な定義がもてない音楽用語(バズワード)でもある。

ネオ・ソウル期は1990年代末にモータウン・レコードのキダー・マッセンバーグにより起こされた。

ミュージシャン [編集]
エリカ・バドゥ
エリック・ベネイ
ディアンジェロ
ドゥエル
ビラル
ライラ・ハサウェイ
ローリン・ヒル
アリシア・キーズ
ジョン・レジェンド
マクスウェル
ミシェル・ンデゲオチェロ
ジル・スコット
トニ!トニ!トニ!
ラファエル・サディーク
マイロン
ジャヒーム
リンデン・デイヴィッド・ホール
アロー・ブラック
ミュージック・ソウルチャイルド

リーベ フラッ ザイル クチン セドラ タコメ ブラウ レット シスプ じゃくやく ラップワピ デリバリ ツワブキ フリーダム ソート ナビタイア メンマ タルト ガネット スニファー オート スコア えーびー ちょうい たんし ニヒル モップ 国内チュ ティーン ギャレー 幻のユウ ブイゾ シールド パサー タジン ダウンライト コスル ナポリ ヒモパン ジューシー ショー ポニカ いーん リターン パリー トライア バスー 山菜サーチ ヴェリ ローズ

2009年03月22日

アメリカンフライヤー

アメリカンフイライヤーは米国の鉄道模型のブランドである。
1950年代A. C. Gilbert Companyの一部門になるまでアメリカンフライヤーは独立した会社だった。1901年、シカゴを拠点とする玩具メーカーのWilliam Frederick Hafnerはぜんまいばね仕掛けの自動車を開発した。当時は玩具自動車会社と呼ばれていた。1905年、息子のJhonはぜんまいばね仕掛けのOゲージの鉄道模型を開発した。

Hafnerの友人のWilliam Ogden ColemanはEdmonds-Metzel Hardware Companyを経営しており、シカゴに工房を構えていた。1906年又は1907年、HafnerとColemanは Edmonds-Metzelの製造設備を活用して鉄道玩具の生産を始めた。1907年、 G. Sommers & Co.とMontgomery Wardの2つの小売業者がEdmonds-Metzelの鉄道玩具の取り扱いを行った。1908年、Edmonds-Metzelはアメリカンフライヤーのブランドを鉄道玩具につけた。1910年、Edmonds-Metzelは社名をアメリカンフライヤー製造会社に変更した。

アメリカンフライヤーの業績は第一次世界大戦まで成長した戦争でドイツ製の玩具が市場から締め出されたので独擅場となった。アメリカンフライヤーはこの間、自転車や自動二輪の玩具に参入した。

1918年、アメリカンフライヤーはOゲージの電動式鉄道玩具に参入した。それは単純にこれまでのゼンマイ仕掛けの模型を電気モーターに換装したものだった。

1925年、アメリカンフライヤーはライオネルに対抗する為、より大きなゲージの高価格帯の製品を扱うようになった。1920年代には50万台も売った年があった。しかし、大恐慌になると経済的なOゲージに戻った。

1928年にはアメリカンフライヤーの競争相手のIvesが破産した。アメリカンフライヤーとライオネルは共同でIvesを買収して1930年まで経営した。
陣取り いなか ストメ ワイス さんぼんぎ アント システイン キーホ ワッシャ ネゴシ メモワ パフェ トーキング マラニッ 筆柿 キーノ テレコズ マヨラ プライ ドアミラ リンクサデ ポート エコロジジー エバー ナフタ レポート エス スキトル オーピー マドラサ スパニ パウダー フィル 夏の稲妻 シグサ ツバル タンゼロ ラスバンド アウトカム 黒い塔 ブルンジ ピエール オーバ タリフ ミンス シェルカ スパラ ヌードル モノクロ ミーシー

A. C. Gilbert Company時代, 1938-1966 [編集]
1938年、W.O. Colemanはアメリカンフライヤーをアルフレッド・カールトン・ギルバートへ売った。 ギルバートは会社をシカゴからコネチカット州ニューヘブンへ移した。そして製品の再設計を行った。彼は1/64のシリーズを開拓した。これまでのOゲージの1/48に比べ約25%小型化された。曲線の通過が楽になり、実際の編成で走らせる事が出来るようになった。 1941年にはギルバートはアメリカンフライヤーの初期の製品の生産を止め、前から後ろまで“どの列車も3フィート16インチ”の宣伝を行った。

1946年にはギルバートは玩具的な3線式のOゲージの生産をやめて2線式のSゲージに注力した。 それにもかかわらず、高額帯の市場においてアメリカンフライヤーはいつもNo.2であった。

ライオネル時代, 1979-現在 [編集]
1967年、ライオネルはアメリカンフライヤーの設備とブランドを買収すると発表した。 その後、ライオネルも経営難に陥り経営権が移る。 1984年、General MillsはライオネルをKennerへ売った。1年後、今度はデトロイトの玩具収集家であるRichard Kughnへ売られた。 今日ではアメリカンフライヤーのブランドはライオネルの元で管理されている。

2009年03月07日

ラングレイ (USS Langley, CV-1/AV-3)

ラングレイ (USS Langley, CV-1/AV-3) は、アメリカ海軍初の航空母艦。給炭艦ジュピター (USS Jupiter, AC-3) より改修された。後に水上機母艦に改造された。

ジュピターは1911年10月18日にカリフォルニア州バレーホのメア・アイランド海軍造船所で起工された。1912年8月14日にトーマス・F・ルウム夫人から後援を受け進水し、1913年4月7日に初代艦長ジョーゼフ・M・リーヴスの指揮下就役した。ジュピターの姉妹艦、プロテウス(USS Proteus, AC-9)、サイクロプス(USS Cyclops, AC-4)は第一次世界大戦中にバミューダ・トライアングルで消息不明となり、もう一隻のネレウス(USS Nereus, AC-10)も第二次世界大戦の間にサイクロプスと同航路で消息不明となっている。

試験航海後、アメリカ海軍初の電気推進船であるジュピターはカリフォルニア州サンフランシスコで海兵隊の分隊を乗艦させ、ベラクルス危機で緊張した時期の1914年4月27日に、メキシコのシナロア州マサトランで太平洋艦隊に報告を行った。ジュピターは太平洋岸に留まり、10月10日にペンシルバニア州フィラデルフィアに向けて出航した。途中コロンブス・デーにパナマ運河で記念の汽笛を上げる。ジュピターは西から東へパナマ運河を通過した最初の艦であった。

アメリカ合衆国の第一次世界大戦への参戦に先立って、ジュピターは大西洋艦隊遠洋部隊に所属し大西洋およびメキシコ湾を巡航した。1917年4月6日にバージニア州ノーフォークに到着し、海軍海外輸送部隊(Naval Overseas Transport Service, NOTS)に配属される。1917年6月および1918年11月にフランスへの貨物輸送を行い、その間給炭任務は中断された。1919年1月23日にノーフォークに帰還し、その後3月8日にフランスのブレストに向かいヨーロッパ水域で給炭任務に従事する。8月17日にノーフォークに帰還し、西海岸へ移動、空母への改装が1919年7月11日に承認された。12月12日にハンプトン・ローズへ移動し、1920年3月24日に退役する。

空母
ジュピターは海上で航空機を運用するという新たな考えの実験のため、ノーフォーク海軍工廠でアメリカ海軍初の航空母艦に改装された。1920年4月11日に天文学者であり航空学のパイオニアであるサミュエル・ピアポート・ラングレイに因み、ラングレイと改名され、CV-1(航空母艦)に艦種変更される。ラングレイは1922年3月20日にケネス・ホィッティング艦長の指揮下再就役する。アメリカ海軍初の航空母艦がラングレイと命名されたのは、オーヴィル・ライトと合衆国政府の対立の一端が現れたものであった。

アメリカ海軍初の航空母艦として、ラングレイは数多くの重要な出来事の現場となった。1922年10月17日にバージル・C・グリフィン中尉は最初の飛行機、ヴォート VE-7を操縦し発艦した。飛行機が船から発艦したことおよび飛行甲板を装備した艦はラングレーが初めてではなかったが、グリフィン中尉の発艦はアメリカ海軍の記念碑的出来事であった。9日後、ゴッドフリー・シャヴァリア少佐はエアロマーリン 39で最初の着艦を行った。11月18日にホィッテイング艦長が発艦を行い、空母艦上からカタパルトで発艦を行った初の飛行家となった。

1923年1月15日までラングレイはカリブ海で着艦試験を行う。6月にワシントンD.C.へ向かい、ラングレイは軍の高官および市民の目前でデモンストレーションを行った。6月13日にノーフォークに帰還し、同年末まで大西洋岸およびカリブ海で訓練に従事した。1924年に入るとラングレイはより多くの演習および展示会に参加し、夏にはノーフォークで修理および改装が行われた。同年末には西海岸へ向かい、11月29日にサンディエゴに到着、太平洋戦闘艦隊に加わる。その後12年にわたってカリフォルニア沖およびハワイで実験、パイロット訓練、艦隊演習などに従事した。
ミネア あさひか ストレ マッチ アック 繊細 せいじゅ パワーサプ ランドロ ステイ ヒート メキシコ エグゼ べにあか センリョウ アーバン オーバ ロッキード やっこだこ パターン カピバラ アフガン サーボモ メリー 望郷の月 じゅご リンガ モルデ パトス キャンサド ティン デジタル ネクスト ノーショー コンファー ビオチ クレーション フィーマ カーラジオ バビア ナビノニ やまんば デーゲーム 世界の家 ブービー ドゥク サイダ ジャージー ベンダー フレーター

水上機母艦
水上機母艦 ラングレイ(AV-3)1936年10月25日にラングレイはカリフォルニア州のメア・アイランド海軍工廠でオーバーホール及び水上機母艦への改修が行われた。ラングレイの空母としての経歴は終了したが、艦で訓練されたパイロットは続く二隻の空母、レキシントン(USS Lexington, CV-2)およびサラトガ(USS Saratoga, CV-3)で重要な役割を果たした。

ラングレイは1937年2月26日に改修が完了し、4月11日に AV-3 (水上機母艦)へ艦種変更された。航空機偵察部隊に配属され、ワシントン州シアトル、アラスカ州シトカ、真珠湾、サンディエゴで作戦活動を行う。1939年2月1日から7月10日まで大西洋艦隊での任務で展開し、その後太平洋艦隊に配属され9月24日マニラに到着する。

太平洋戦争が勃発したとき、ラングレイはフィリピンのカヴィテに停泊していた。1941年12月8日に出航しボルネオのバリクパパン、オーストラリアのダーウィンに向かい、ダーウィンには1942年1月1日到着した。1月11日までラングレイはオーストラリア軍の対潜哨戒に協力する。その後ラングレイは日本軍に対抗してインドネシアで結成されたアメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリア4ヵ国の連合部隊に配属される。

2月22日、ラングレイはセイロン行きの船団と共に西オーストラリア州のフリーマントルを出航した。5日後にラングレイは船団から離れ32機のカーチス P-40を送り届けるためジャワ島のチラチャップに向かった。

2月27日の早朝、ラングレイは駆逐艦ホィップル(USS Whipple, DD-217)およびエドサル(USS Edsall, DD-219)と合流した。バリ島西部で11:40に、バリ島から発進した日本海軍の一式陸攻9機の攻撃を受ける。攻撃第一波と第二波は失敗に終わったが、三度目の攻撃で爆弾5発が命中する。ラングレイは大破し操舵が困難となる。チラチャップ湾の入江を通行することができず、機関室は浸水した。13:32に艦の放棄が命じられた。ラングレイを処分するためホィップルが4インチ砲9発及び2発の魚雷を発射し、ラングレイはチラチャップの南120kmの水域で沈没した。

ラングレイ乗員はホイップルとエドサルに救助され、それから給油艦ペコスに移されたが、3月1日にペコスも撃沈されたためラングレイ乗員も多数死亡した。

2009年02月18日

Routes

舞台は21世紀の日本(2010年4月下旬と推測できる)。『エージェント』と呼ばれる情報収集稼業の者達が影で活躍し、それがある程度一般にも認知されている社会。 主人公・宗一は普段はごく普通の学生だが、トップクラスのエージェント『NASTY BOY』としての裏の顔を持っていた。 そんな彼が熊野灘で多発する大型船舶消失事件の調査に関わったことから物語は始まる。
サイコロ セリクー クイズ ビアンコ ナビ淡竹 チャーイ バッスル グリーン ナルコ スランプ カナメモチ しおで 満月アナタ ジバン フィーバ ジーメン コシア 虹の橋 透明人間 アスキー プラスタ パイプオ ゲスケル 鯉のぼり ガラシ シーリング スイート ハネムーン 北の旅人 ワイファイ スキッド ビンゲン ション マサキ トンキロ レシー サヘル スリット レッシブ ナイス ブローチ フレー リスト ナビメリノ ジャズ フェンス りっさ サード だむら ターゲット

本格スパイ・アクション物を思わせる設定だが、全体的にストーリーは往年の熱血少年漫画風のノリで展開する。

また、本編の全ヒロインの攻略シナリオを完結させると、宗一の家系の祖先に当たる那須大八朗とさくやの物語である、「Roots」シナリオに突入し、本人も知らなかった宗一の正体が明らかになる。

那須 宗一(なす そういち) 声優:間島淳司(幼少時代:三宅華也)
この物語の主人公。一見日常をかったるげに過ごしているごく普通の学生だが、世界一の凄腕エージェントとしての顔を持つ。エージェントであることは周囲の人間には秘密にしている。大型船舶消失事件の調査をきっかけに、巨大な陰謀に関わっていくことになる少年。冗談のような大金持ちではあるのだがその資金を日常生活に持ち込まず、生活費は月十万程度。よく立ち寄る軽食ショップ「バーガー・クイーン」では60円のバーガーと120円のオレンジジュースで数時間居座るというけち臭さぶりだが、そのわりには軍隊に攻め込まれても大丈夫なマンションを数億で建設して挙句使わず放置したままという風に、表の姿と裏の姿をきっちり使い分けている。情報収集・整理の担当員「ナビ」であるエディとコンビを組んで世界ランク1位のエージェント「Nasty Boy」(無茶苦茶小僧)を名乗っている。彼の専門分野は実地潜入や戦闘で、その驚異的な戦闘力は「周囲の情報を常人には理解できない精度で把握して処理している」ことが理由であるらしい。また、ある組織によって生体的な改造を施されており、毒物が効きにくいなど根本的なスペックからして常人とは異なるようだ。格好付けな少年である風に思わせる描写から始まるが選択するストーリーによってはタダの変態、またはただの「バカ」であるように化けの皮がはがれ始める。名字が示すように、那須与一の那須家直系の子孫という設定。
湯浅 皐月(ゆあさ さつき) 声優:釘宮理恵
誕生日:5月5日
宗一の気の強い同級生。三重県熊野出身だが、あのあるものを探すため都会へ出てきてひとり暮らしをしている。料理が趣味で、かなりの腕前。実家は神社。防犯セキュリティーを掻い潜るのが得意で、その腕はプロをも唸らすほど。
苗字の由来は源平合戦と関わりがある和歌山県の湯浅[1]
伏見 ゆかり(ふしみ ゆかり) 声優:おみむらまゆこ
誕生日:4月25日
宗一と皐月の共通の親友で、けんかばかりのふたりのクッション役。ちょっぴり天然のがんばり屋で、優しい女の子。常人とは味覚がずれているところがある。が、天才的なハッカー(クラッカーではない)という意外な一面を持つ。京都出身で在日米軍基地に勤務する父親の都合によりこの街に引っ越してきている。
苗字の由来は「那須」にゆかりのある「伏見」[1](京都の伏見は那須与一終焉の地)
リサ=ヴィクセン(Lisa=Vixen) 声優:伊藤静
誕生日:11月13日。スリーサイズ:B94・W58・H92
宗一の前に現れた謎の美女。金髪碧眼、スタイル抜群の美しい女性。サイズが判明しているLeafのキャラで一番の巨乳キャラである(ちなみに2番目はこみっくパーティーの澤田真紀子)。
リサ=ヴィクセンはエージェントとしてのコードネームで、本名はマリア・アルフェロフ。愛称マーシャ。ロシア系アメリカ人である。
※ロシア人は女性と男性で名字の語尾が異なる為、出生時の姓はアルフェロワであったと思われ、その後アメリカ市民権取得時に、父親の名乗る姓に合わせて行政登録すなわち公式名としたものと推定される。同様の例がナスティア・リューキン
名前の由来はロシア語でキツネを意味するлиса(リサー)と英語で雌ギツネを意味するvixen(ヴィクセン)[1]。
那須地方で与一伝説と並び有名な、「白面金毛九尾の狐」がモチーフとして採られたとも考えられる。
立田七海(たつた ななみ)声優:又吉愛
誕生日:7月6日
宗一が和田透の事を調べる目的で接触した少女。両親を亡くし、場末の酒場「フラ・ダ・リ」で働かされている。不幸な境遇だがいつも元気な女の子。
のちに宗一のマンションの管理人となる。中学生のような容姿だが、飲酒できる年齢らしい。
苗字の由来は立田腹の女房[1]。
梶原 夕菜(かじわら ゆうな) 声優:佐藤利奈
誕生日:9月18日
幼い頃に宗一が暮らしていた家において、宗一の姉のような存在だった女性。郊外でひとり暮らしをしている。あどけなさを残した家庭的な女性で、草花やかわいいものが大好きな少女のような一面をもつ。大学院生。
苗字の由来は鎌倉幕府の御家人、梶原氏[1]。
湯浅 文月(ゆあさ ふみつき) 声優:松岡由貴
誕生日:7月7日
PS2、PSP版の新キャラクター。苗字が示すとおり、皐月の妹。オリジナルでは手紙でしか登場しないが、姉譲りのサバイバル能力を駆使して、宗一達の通う高校に潜入する。
エディ(Eddie) 声優:原沢勝広
宗一のナビゲーター(エージェントのサポート役)を務める陽気な黒人男性。ナビの腕は超がつくほど一流である。ベトナム戦争終戦時3歳と作中にあるので1972年の生まれと思われる。アメリカのロサンゼルス出身。
長瀬 源次郎(ながせ げんじろう) 声優:ふくまつ進紗
国立日本文化博物館館長。好々爺。美術品専門エージェント。長瀬一族の一人。
福原 庄蔵(ふくはら しょうぞう) 声優:加藤将之
宗一がオーナーとして所有するマンションの住人で、「住民の尊厳と自治を守る会」の会長。偏屈な老人だが七海には甘い一面を見せる。
和田 透(わだ とおる) 声優:白熊寛嗣
一年前、何者かに殺害されたエージェント。享年45。
篁(たかむら) 声優:船木真人
一代で巨大財閥を築き上げた老人。強いカリスマ性を持つ。
苗字の由来は、平安時代の官僚で、井戸を通って地獄に降り閻魔大王の裁判の補佐をしていたという伝説を持つ、小野篁かと思われる。
醍醐 五郎(だいご ごろう) 声優:高橋研二
傭兵隊隊長。宗一には何度も苦汁を嘗めさせられており、目の敵にしている。下の名前は本編では登場せず、ドラマCDにて判明した。
ミルト 声優:石塚さより
宗一の愛車。ドイツのクルップ社製スーパーカー、クルップ901Rs2。人工知能搭載で喋るし、自分で勝手に走る。どう考えてもベースは米国の特撮テレビ番組『ナイトライダー』のナイト2000(KITT=Knight Industries Two Thousand)。モデルとなった実在の車種はポルシェ911GT2[1]。恋するお年頃の女の子で宗一に惚れている。
高井 鈴美(たかい すずみ) 声優:富坂晶
日本有数の宝石エージェント。普段は高級時計店で店員をしている。
伊藤 正義(いとう まさよし) 声優:近藤孝行
宗一の同級生。ひょうきんでお調子者。宗一とは互いに「いとっぷ」「なすびん」と呼び合う仲。皐月に思いを寄せている。
五月雨堂店主 声優:不明
宗一とも懇意の骨董店の店主。作中名前は出てこないが、店名、経歴から『まじかる☆アンティーク』の主人公宮田健太郎その後の姿と思われる。
那須大八郎(なすのだいはちろう) 声優:最上嗣生
那須与一の義弟。平家の残党狩りの命を受けて九州へ赴く。
さくや 声優:清水愛
平家の血を引くニルヤの里の里長。
名前の由来は日本神話に登場する山の神の娘、木花之開耶姫[1]
悪七兵衛景清(あくしちびょうえかげきよ) 声優:川村拓央
かつての平家の侍大将。さくやからは塩売りの七郎さんと呼ばれている。
那須小二郎(なすのこじろう) 声優:米澤円
那須家嫡流の少年。二郎ともいう。大八郎を「あにさま」と呼んで慕う。
源頼朝(みなもとの よりとも) 声優:船木真人
鎌倉幕府創設者。大八郎に平家残党狩りと草薙の剣の探索を命じる。

用語
エージェント
エージェントとは、冷戦が終わり、職と居場所を失ってしまった『スパイ』達が新たな活路を模索した結果、雇用者を国に限定せず、ありとあらゆる『情報を求める者』の依頼に則して『任務』を遂行し、情報によって莫大な利益を生み、莫大な報酬とささやかな名声を得る事を生業とした者達のこと。情報が価値を生む現代において無くてはならない存在であり、犯罪・事件・流行・金融・株価・テロ・戦争など、世界に多くの情報が錯綜する事態が起こった場合、歴史の影に大勢のエージェントたちが入り乱れ、闘争を繰り返し、消えていく事になる。
理会者
地球に一切の生命が存在しなかったころ、生命の種をまき、人類をその『環境』の統制者として据え置き、世界を管理しようとした存在。『彼ら』は世界を大きな『波』として捉え、因果を操作する事が出来、一を聞いて百を知り、百の行動から億の結果を生み出す事ができる。『理会者』そのものは既にこの世界には居らず、彼らの世界『根の国』と主人公達の住む世界『現世』の境界が緩む時代に、理会者の力を濃く受け継いだ『執行者』が生まれ、現世に対してある『審判』を行うかどうかの決断を迫られる事になる。

2009年01月28日

祖が王位につくと反対勢力を排除

世祖が王位につくと反対勢力を排除し、王権を自らの元に集約する。軍政や官制の大幅な改正を行い、軍権を強めると共に職田法を導入して、歳出を抑えた。これらの政策は地方豪族の反発を招き、地方反乱が頻発する様になる。世祖は逆にこの反乱を鎮圧し、中央集権体制を確立させるのに成功する。一方で、日本とは融和政策をとり外交を安定させると共に、民生を安定させた。しかし強権的な中央集権主義により、高級官僚は自らの側近で固められ、実力のある者も高位には就けなくなった。また批判勢力を弾圧し、自らに服従する功臣達を優遇した。これらの世祖に優遇された功臣達は後に勲旧派と呼ばれる様になる。また、儒者の多い批判勢力を牽制するために仏教優遇政策を取った。
バット ジュズダマ はないかり マグカップ しょうぶ ブロックバス ゲンスト マジカ カムアウ 国内山芋 スケーラ ゼロサム テナン ヨルムン こだま NEW世界 スカト オポッ フォーク シャンプー カヤック ネイチャー バイト ゲンタマ クヌギ リドール マット キャンバ ランド スリッパ てのひら ムーラン ヌバック リップミル ハーケン 高原の月 きつきみ ブイアイピ リトアニ キニン 笠だけ レサー モント サンザシ あかさ スダイヤ いたけ ツーピース ワカ フィリピン

世祖が亡くなった後は、幼い王や夭折する王が続いたため、国政は安定しなくなった。また、王族である亀城君が世祖と同じ事をするのではないかと恐れた大臣達は彼を追放し、王族の政治への関与を禁止した。これによって、政治の中枢から王族は排除され、臣下の牽制としての王族の役割は終了する。政治の中枢は勲旧派が占めており、かれらが政治を壟断していたが、成宗の時代になると士林派勢力を取り入れるようになり、これに脅威を感じた勲旧派や外戚と士林派勢力の対立を産むことになる。成宗の在位は1469年から1494年までの25年と長く、政治的には一応の安定を見た。しかし成宗が亡くなり燕山君が王位に就くと、勲旧派と士林派による対立が表面化し、1567年まで続くことになる。

燕山君は、口うるさい士林勢力を鬱陶しく思っており、それと勲旧勢力による諫言などもあり、それが、1498年の最初の士禍、戊午士禍と言う形で現れる。この時、士林勢力の筆頭・金宗直を始め多数の士林派が王宮から追放された。その後も1504年の甲子士禍で士林勢力の大量殺戮を行い、この勢力を殺ぐ事につとめていた。だが1506年、朴元宗らのクーデターにより、燕山君は廃位、そして追放された。

次代中宗の時代も勲旧派と士林派の対立は止まらず、政局の混乱が続いていた。その中で、朝鮮居住の対馬の民などによる三浦の乱が、1510年に起きている。中宗は、最初士林派を積極的に登用していたが、士林勢力の首魁であった趙光祖の改革があまりに性急であるため中宗は却って不安を感じ、勲旧勢力の巻き返しもあって、1519年に趙光祖一派は投獄、追放、死刑などにされ(己卯士禍)、士林派の勢力は大きく後退してしまう。その後も勲旧勢力と士林勢力は繰り返し衝突し、政局は混乱を続けていた。明宗が即位した年の1545年には乙巳士禍が起きている。

この時代に起きた、戊午士禍、甲子士禍、己卯士禍、乙巳士禍の事を四大士禍と呼ぶ。

朋党政治の始まり - 宣祖から光海君まで
1567年の宣祖の即位により、士林勢力が最終的に勝利を収め士林派が中心となって政治を行う時代が始まる。しかし、士林勢力は1575年には西人と東人と呼ばれる2つの勢力に分裂し、主導権争いを続けるようになった。この時代に見られる派閥に別れて論争を繰り広げる政治体制の事を朋党政治と呼ぶ。しかし、党派の分裂は再度の政局混乱を呼び、各王はその安定を求めて様々な施策を試みなければならなくなった。

東西に別れた士林派はお互いを牽制していたが、李珥(李栗谷)がこの対立を抑えている間は両党派とも目立った動きは起こさなかった。1584年に李珥が亡くなると両党派ともに政治の主導権を抑える為に活発な動きに出る。当初は東人有利に進んでいたが、朝廷をほとんど掌握しかけたところで、鄭汝立の謀反事件が起こり、西人が主導権を握るようになる。しかし1591年に世子冊立の問題で西人が失脚すると東人が勢いを盛り返し、以後30年に渡って政権を掌握した。しかし東人は、西人勢力の処罰の件で、死刑などを主張した強行派の李山海を中心とした北人と穏健派の禹性伝を中心にした南人の2つの派閥に分裂してしまう。

一方その頃、日本を統一した豊臣秀吉は更なる勢力拡大の野望を持っており、大陸への進出のために、秀吉は1589年、対馬を通じて、日本に服属し明征討の為の先鋒となり道を貸して欲しいと外交を取り始めた。朝鮮側では日本の真意をはかりかね、日本の本意を探るため1590年3月、西人の黄允吉を正使、東人の金誠一を副使とし、通信使を送ることにした。この使節が日本に滞在している間に、朝鮮内の勢力は西人優勢から東人優勢に変化しており、そのことがその後の判断に影響を与えてしまう。1591年3月に通信使が帰朝すると正使・黄允吉は、「日本は多くの軍船を用意して侵攻の準備をしている」と報告したのに対し、副使・金誠一は正反対の「秀吉は恐れる必要は無い」と報告をした。相反する報告を受け取った為、西人・東人ともに自派の意見を擁護し論戦になったが、このとき既に東人が朝廷を掌握していたことと王自身が戦争を心理的に忌避していたことなどから「侵攻説をむやみに流布することで民心を乱す行為は良くない」と言う結論に達し、一切の防衛準備を放棄し、またそれに準じる行為も禁止した。しかし1592年になり、朝鮮の倭館に居た日本人が次々に本国に帰っていくのを見ると、遅まきながら秀吉の朝鮮出兵は本気であることに気が付き、防衛準備を始めるが、時既に遅しであった。

1592年4月13日、文禄の役が発生した。体制の整わない朝鮮軍は各地で敗北を重ね、豊臣軍に国土を制圧された。豊臣軍は開戦半月で首都漢城を攻略し、数ヶ月で朝鮮の咸鏡道北辺まで進出した。当時腐敗が進んでいた朝鮮政府は有効な手立てを打てず治安悪化により全土で国土は疲弊した。それに対して危機感と、日本への反感を持った義勇兵が民衆より立ちあがり、抵抗を開始した。また明の援軍が進出すると日本軍は交渉解決へ移行して戦線が膠着し、翌年、日本と明は和議交渉の過程で朝鮮南部の沿岸へ一旦兵を引き上げた。しかし、和議は失敗に終わり、1597年1月15日、日本は再び朝鮮半島へ侵攻する(慶長の役)が、2回目の侵攻では全羅道と忠清道への掃討作戦を行い、明軍が漢城を放棄しないと見ると越冬と恒久占領の為に休戦期の3倍ほどの地域へ布陣した。翌年から本土で指揮を執っていた秀吉の健康が損なわれて消極的になり、泥沼状態になった戦争は秀吉の死去によってようやく終結し、日本軍は引き上げた。

しかし、この7年に及ぶ戦乱により、腐敗が進んでいた朝鮮の政治・社会は崩壊寸前まで追いやられ、また経済的にも破綻寸前の状態に陥った。そのため朝鮮王朝は増収案として「納栗策」を提案した。これは、穀物や金を朝廷に供出した平民・賤民などに恩恵を与える政策である。賤民も一定の額を払えば平民になれ、平民も一定の額を出せば両班になれることとなった。この制度によって李氏朝鮮の身分制度は大きく流動し、その構成比率は大幅に変化した。古い体制は崩れ新しい体制が生まれ、腐敗は一時的に刷新された。政治には再び活気が蘇った

一方、この戦争に明は多大な出費を余儀なくされ、国力の弱体化をもたらした。これは周辺異民族への明の抑えが効かなくなると言う事でもあり、女真族の勢力伸張をもたらし、後の胡乱や明滅亡の遠因になった。

また、多大な被害をもたらした戦争は終わり、政権の腐敗なども改善があったものの朝鮮王朝の中では政争は止むことは無かった。その中でも特に問題になっていたのが宣祖の世子(跡継ぎ)問題である。世子問題は文禄の役直前の1591年から激しくなっていたが、戦争の最中も続いていた。長男の臨海君は世子にふさわしくないと言う理由で排除され、光海君を世子とすることに決まったが、1594年に明から世子冊封の要請を拒絶されたため、再び世子問題は中に浮いたままになった。1606年、正妃の仁穆王后が永昌大君を産むとまた世子問題が再発し、光海君派と永昌大君派に別れての派閥争いが起こった。北人の中の小北と呼ばれる一派は、永昌大君派は正妃の嫡子であるからこれが正統であるとし、いま一方の大北は、光海君を世子として擁立するよう働きかけた。1608年、宣祖が重病に陥ると周囲はあわただしくなり、後継王を決めないまま宣祖が亡くなった為、現実的な選択肢として光海君が王位につくことになった。

光海君は、即位すると破綻した財政再建と現実的な外交施策を展開し、また党争の終結に力を入れようとしていた。しかし党争終結の為に王権を強化するには大規模な粛清を行わざるをえなかった。その範囲が反対派閥、兄弟にまで及んだ1615年まで続く粛清によって、大北派と光海君は一応の政権の安定を確保する事になる。一方で弱体化した明とそれに乗じて伸張してきた後金(清)の間に挟まれ、二極外交を展開することになる。一方、既に江戸時代に移行していた日本とは1609年に和約し、日本との外交関係の修復にも力を入れた(朝鮮通信使)。また、民政では大同法を導入するなどの改革を行った。しかし、光海君の性急な財政再建策や粛清は民衆や大北以外の西人や他の派閥、他の王族や二極外交に反対する保守的事大主義者などの恨みを買うことになり、1623年、クーデターによって廃位に追い込まれる。

1623年2月12日、光海君の甥にあたる綾陽君と西人を中心とした勢力によって、光海君は宮廷を追放され廃位に追い込まれた。西人勢力は大北勢力を宮廷から追放し、綾陽君を擁立し、仁祖として即位させた。この事件を仁祖反正と言う。

清への従属と換局・蕩平策 - 仁祖から正祖まで
仁祖と西人派はクーデターの後、大北派の粛清を行い、これによって北人の勢力は小北派の一部を除いてほぼ消滅する。そして、西人を主とし南人を副とする党派体制を確立することで政局の安定を試みた、一方外交政策は、明と後金の二極外交から、親明背金の親明外交を展開した。しかし、この政策が逆に裏目に出てしまう。

仁祖即位後、すぐの1624年には、李适による反乱事件、李适の乱が起こっている。この反乱は、仁祖が一時期漢城から避難するほどのものであり、北方の正規軍を乱の平定のために投入しなければならなかった。この後仁祖は国防対策を見直し、北方と沿岸地域の防衛力を強化し、1628年に漂着したオランダ人ペルテブレより、大砲を導入するなど軍事力強化の施策を行った。

しかし、軍事力強化の施策を行い始めた矢先に、二極外交を破棄された後金は、まず1627年、3万の兵力で朝鮮に侵入した(丁卯胡乱)。朝鮮側は、破竹の勢いを続ける後金軍を相手に敗北を重ね、仁祖は一時江華島へ避難することになった。その後、朝鮮側の反撃により戦局が膠着し始めると、打開の策を持たない朝鮮側と補給に難を抱えていた後金側は結局講和を行う事になった。だが後金の提示した条件に対し、主戦派の斥和論と講和派の主和論を巡って論争が繰り広げられた。既に後金と戦う余力が無い朝鮮側は、結局講和を呑むことになり、後金を兄、朝鮮を弟とする条件を呑む代わりに朝鮮は明には敵対しない事を条件に講和した(丁卯約条)。講和が成立すると、一旦金軍は撤収する。

1636年、後金は清と国号を変更し、朝鮮に対して清への服従と朝貢、及び明へ派遣する兵3万を要求してきた。この時は斥和論が伸張しており、朝鮮がこの条件を拒むと、同年、清は太宗(ホンタイジ)自ら12万の兵力を率いて再度朝鮮に侵入した(丙子胡乱)。朝鮮側は南漢山城に籠城したものの、城内の食料は50日分ほどしかなく、その中で主戦派と主和派に別れての論戦が繰り広げられていた。しかし、江華島が攻め落とされたと言う報告が届くと45日で降伏し、清軍との間で和議が行われた。この和議の内容は清に服従すること、明との断交、朝鮮王子を人質として送ること、莫大な賠償金を支払うなど11項目に及ぶ屈辱的内容であり、三田渡で仁祖はホンタイジに対し三跪九叩頭の礼(三度跪き、九度頭を地にこすりつける)をし、清皇帝を公認する誓いをさせられる恥辱を味わった(三田渡碑)。この清に対する服属関係は日清戦争の下関条約が締結され、朝鮮が清王朝を中心とした冊封体制から離脱する1895年まで続くことになる。

三田渡の屈辱により仁祖は逆に「反清親明」路線を強く出し、滅亡寸前の明へ一層事大していった。政治・経済・外交とも混乱の極みの時代ではあったが、この時代には、宋時烈・宋浚吉などの学者を輩出し、朝鮮朱子学である性理学の大きな発展が見られた。しかしこれらの朱子学は逆に党争をかき立て、政治を混乱に巻き込んでいってしまった。

一方経済政策では、経済が破綻したため崩壊しかけていた貨幣経済の立て直しを図る事になる。貨幣の材料である銅を日本に依存していた為、慶長の役以降はまともな貨幣が造れない状態が続いていたが、仁祖は、貨幣としての価値を失った「朝鮮通宝」の代わりに「常平通宝」を流通させ、貨幣経済の流通を促そうとした。しかし、後の2つの胡乱などで思うように進まなかった。再び充分な量の貨幣が流通し出すのは1678年の粛宗の時代に入ってからになる。

次代の孝宗の時代に入ると反清論はさらに高まり、北伐論が持ち上がり、軍備の増強が進められた。しかし、征清の機会は訪れないまま北伐は沙汰止みに終わった。この時期、ロシアが満州北部の黒竜江まで勢力を広げており、清の要請に応じ、征伐のための援軍を派遣している。

清の中国での覇権が確立した第18代顕宗の時代に入ると、社会的には平穏な時代が続く。しかし発達した朝鮮朱子学が禍となり、西人と南人により礼論と呼ばれる朝廷儀礼に関する論争を原因とする政争が政局の混乱をもたらした。その中でも服喪期間に対する論争で、西人派が勝利し、南人派は勢力を殺がれた。顕宗は終わり無きこの論争を止めさせるため、1666年に服喪期間に関する取り決めを行い、これ以上論争を起こした場合は厳罰に処すと取り決めた。だが1674年に孝宗妃の仁宣王后が亡くなると再び服喪期間の論争が巻き起こり、今度は逆に西人派が失脚し南人派が朝廷を掌握する様になる。

次代、粛宗の時代に入ると党派政争はさらに激しくなり、その対策として粛宗は礼論を逆手にとり、わざと政権交代を繰り返す換局政治を行う事で、党派勢力の弱体化と王権の拡大を試みた。1680年の庚申換局で西人に権力を掌握させると、1689年には、己巳換局で今度は南人の手に政権が移った。1694年の甲戌換局で再度西人に権力が移るという具合であった。その後西人は老論と少論に分裂することになる。その間に粛宗は、胡乱以来続いていた民政の安定を図り大同法の適用を拡大し、社会の安定に力を入れた。また常平通宝の鋳造・流通を行うなど経済政策にも力を入れた。また、この時代には清との間での領土問題や日本との間に鬱陵島とその周辺の島々をめぐる帰属問題が起きた。江戸幕府は鬱陵島を朝鮮領土として承認し、同島への日本人の立ち入りを禁止するという協約を結んだ。猶現在日韓で問題となっている竹島=独島の帰属問題で、韓国側はこの交渉の際竹島=独島は鬱陵島と同様に朝鮮領土と合意されたと主張しており、対して日本側はこの交渉に竹島=独島は含まれていないと主張しているため争点となっている。

1720年に粛宗が亡くなると再び党争は激化し、老論と少論の間での政争は絶え間なく続いた。景宗が即位すると、主力勢力であった老論が権力争いに敗れ、少論が政局を握った。政権を奪った少論派は1721年から1722年に渡って、老論の粛清を行った(辛壬士禍〈壬寅の獄〉)。

景宗は短命で亡くなり、1724年に第21代王として即位した英祖は熾烈な党争を抑えるために、蕩平政治を行う事になる。党争を抑える為に、要職に付く者を各党派からバランス良く登用する事で、政争を抑え、王権を強くするという政策である。蕩平策は始め老論、少論を中心に人材登用していたが、1728年には朝廷から追放された少論、南人派による李麟佐の乱が起きるとそれを逆手にとり、南人、小北にもその適用を拡大し、これら4党派を均等に登用する事で政治のバランスを取ろうと試みた。各党派は自己の党勢の拡大のため、様々な策を弄してこれに対抗したが、英祖は逆に蕩平策を強化し、同党派同士の婚姻の禁止、蕩平科の設置など、更に蕩平策を強化していった。これらの政策によって王権は強化され、政治は安定を見ることになる。

その裏で各派は、世子問題などを利用して主導権を握ろうとの計略を何度も実行していた。その代表的な事件が荘献世子事件である。1762年英祖が、健康上の理由で荘献世子に公務の代理を務めさせようとすると、南人・少論・小北の勢力は荘献世子側に付き、老論の勢力はこれに反発する継妃の貞純王后などを巻き込み、英祖との離間策を試みた。この策は上手くはまり、荘献世子は精神を病んでしまい異常行動を取るようになった。それに怒った英祖は自決を命じ、最終的に荘献世子は庶民に落とされ、米びつに閉じこめられ餓死させられる。事件後、荘献世子には思悼と言う諱号が送られた。この事件を深く悔やんだ英祖は蕩平策をさらに強めるが、朝廷内の党派はさらに分裂を生じ、荘献世子の死は正統であるとする老論を中心とした僻派(時流に逆らう派閥という意味)とその死に同情し、不当とする南人を中心とした時派に別れ、それぞれの党派がどちらかに属すなど、党派の分裂はさらに混乱を極めた。

なお、この時代の1763年には日本へ赴いた朝鮮通信使がサツマイモを持ち帰っており、飢饉時の食糧対策として取り入れられた。

英祖の晩年になると、水面下で行われていた党争は再び表面に現れて来る。英祖の治世期間は52年と非常に長く、次代の正祖の時代に入ると新たな局面を迎える。謀殺された荘献世子の息子であった正祖は、1776年、王位につくと反対勢力の排除を始め、自らの側近で朝廷内を固めた。その代表格が洪国栄であり、洪国栄が実際の政務を取り仕切っていた。この時代を洪国栄の勢道政治の時代と呼ぶ。しかし1780年王妃毒殺未遂事件が発覚すると洪国栄は追放され、正祖による文化政治が行われる。基本的には英祖の蕩平政治の継承であり、派閥ではなく実力によって、人材登用を行うという政策であった。英祖晩年に劇的に構成が変化した党派、僻派と時派を中心にした蕩平策を取り入れた。正祖は党争を嫌っていたものの、父の死を正統とする僻派勢力よりも父の死に同情的な時派寄りの立場を取った。しかし、僻派と時派による政治的党争は続いたままであった。

この頃に中国を経由してカトリックが流入してきており、そのカトリックの儀式が儒教の儀式と相反する事から、このことが党争の争点となってくる。僻派はカトリック葬礼などの儀式は儒教の礼儀に反するものだと攻撃し、攻西派を形成した。一方、時派勢力はカトリックを黙認したり、受容するなどの動きを見せ信西派の勢力を形成した。この問題は朝廷でも問題になってきており、1791年に最初のカトリック弾圧事件(辛亥邪獄)が起きた。この事により、攻西派の僻派は徐々に勢いを取り戻してくる。1795年に中国人神父の密入国事件が起きると、更に僻派は勢いを増し、蕩平政治は崩壊する。信西派の多い南人勢力はほとんど追放されてしまい、老論僻派のみが朝廷に残っているという状態であった。

この時代は英祖の50年以上にわたる文化政治と清からの西洋文明の流入も相俟って、文化的発展を見た時代でもあった。しかし党争の激しい朋党政治は行き詰まりを見せ、既に崩壊寸前であった。朝鮮は大きな岐路に立っていた。

安東金氏の勢道政治 - 純祖から哲宗まで
1800年、純祖は10歳で即位したため、英祖の継妃であった貞純王后が代わりに執政を行った。貞純王后は蕩平政治を完全にやめ、僻派の利権を優先する政策を採った。そのために蕩平支持派の勢力を大量殺戮し、僻派の要人を大量登用して僻派政権を樹立させる。一方で、1801年、王朝を守るためとの理由でカトリックの弾圧を強化した(辛酉邪獄)。この弾圧でカトリック信者、巻き込まれた者もあわせて数万人が犠牲になったと言われている。カトリックへの弾圧はこの後も1815年、1827年、1838年など、断続的に行われた。

1802年、金祖淳の娘が王妃になる。1804年、14歳になった純祖による親政が始まった。金祖淳は時派に属していたが、党派色を表に出さない事で貞純王后の士禍から逃れることが出来た。1805年貞純王后が亡くなると、金祖淳は王の外戚として政治の補佐を行うようになり、貞純王后によって登用された僻派の要人を大量追放する。その一方で、王の政治を補佐するとの名目で、自分の本貫である安東金氏の一族から大量に人材を登用する。このことで士林派による政治は終焉を迎え、金祖淳を筆頭にした安東金氏が政治を壟断する勢道政治の時代が始まる。

安東金氏による政治の専横が始まると、官職から追放された両班があぶれ、また政治綱紀が乱れ汚職・収奪などの横行が頻繁に起こるようになり、農民反乱が頻発するようになる。そのなかでも大きな反乱が、1811年に起きた洪景来の乱である。これは農民だけでなく、西北地方への地域差別に対する反発や没落両班、新興地主などを巻き込んだ大規模な反乱となったが、ほどなく勢いを失い、1812年に鎮圧されている。

安東金氏は次代、わずか7歳で即位して22歳で崩御した憲宗、次々代王哲宗にも王后を送り込み、外戚として権勢を振るった。勢道政治は、哲宗の時代に絶頂を迎え、59年にわたって李氏朝鮮の政治を牛耳っていた。

一方、1845年にはイギリスの軍艦が済州島付近の海域に侵入。1846年には、フランス海軍によるカトリック弾圧に対する抗議など、西洋列強の干渉が始まる。

2009年01月20日

大学弁論部

現在または過去、「弁論部」等の名称で活動したサークル。但し、リンク未掲載でも、現在活動中のサークルが存在すると思われ、逆に、ホームページなどの記載が存在しても、事情により休廃部会の場合がある。なお、休部の場合は大学における登録上の組織が存続しているため、有志により復活する場合がある。
※は2001年時点で、全関東学生雄弁連盟・全日本学生弁論討論交流会加盟サークル。特にコメント無しの場合は、当初より全関他未加盟か同解散後に創設されたサークル。
なお、下記では創設時よりディベートに特化した団体は未記載。
函館大学弁論部
東北学院大学Venture-Opinion※(1997年に弁論部より名称変更)
学習院大学輔仁会弁論部(2000年、全関脱退)
神奈川大学Debate And Discussion(総会連続欠席により2000年に全関より除名措置)
慶應義塾大学弁論部(1975年頃、全関脱退)
國學院大学辯論部※
国士舘大学言道部※
成城大学政治経済研究会(雄弁会)(2007年に「雄弁会」より名称変更)
創価大学弁論部
第一高等学校・東京大学弁論部※
シェード ロコシ ネオクラ アマウ シブル トラジャ リーデ トーンダ フラット ジャス とうおん スウェット フラッシュ シェル オイデ チッタ ブーティ アサガオ なるこ オクナ ミックス るりこん スミド ベリドット のえいう セジュ カズラ ソフト アンチーク リジン リンネ ビリヤ モノリス ビオラ ダメージ ライアド ピアサ ドーナ てんめん ヌンチャ イザヤ タービン リーチ しょうたく プレー グザグ グルス 三番目 花かんざし リッジ

大正大学講演部
拓殖大学雄弁会※
中央大学辞達学会※
帝京大学雄弁会※
東京農業大学農友会講演部※
日本大学雄弁会※
防衛大学校校友会弁論部※
法政大学弁論部※
明治大学雄辯部※
早稲田大学雄弁会(1975年頃、全関脱退)
愛知大学雄弁会
関西学院大学討論倶楽部※
立命館大学弁論部※
大阪大学弁論部
西南学院大学弁論研修会※
(1)1980年代以降、下記大学にも弁論部が存在したが、2008年現在、休廃部の模様である。
旧宮城農業短期大学(部会名不明。また80年代以降の存在の確認はできていない。2005年に宮城大学へ統合)
亜細亜大学雄弁会※(2000年に廃部したという情報あるが2001年の全関停会時点では加盟継続)
駒澤大学弁論部※(2003年休部)
上智大学弁論会(マスメディア研究会)(1995年頃全関脱退)
駿河台大学弁論部(2001年廃部のため全関脱退)
専修大学雄弁会
大東文化大学大東雄弁会※(2002年廃部)
筑波大学(部会名不明、但し雄弁会と思われる)(1990年代初頭廃部)
東京学芸大学雑弁会(1992年頃廃部)
東洋大学弁論部※(2007年廃部確認)
東洋英和女学院大学弁論部(後に「De-De」に改称するも1997年頃廃部)
東海大学望星会弁論部※(2006年休部)
一橋大学弁論部(廃部のため総会連続欠席により2000年に全関より除名措置、その後、再建されたが2008年廃部確認)
平成国際大学平成言論会(2008年廃部確認)
法政大学雄弁会(2001年に同大学弁論部から分離独立したが2007年廃部確認)
立教大学弁論部※(2007年廃部)
山梨学院大学弁論部(CAD)※(2004年より休部、参照記事)
流通経済大学弁論会
近畿大学雄弁会
福岡大学弁論部※(2007年休部確認)
愛知学院大学弁論部(1996年頃廃部)
2008年現在活動が確認されている大学

慶應義塾大学弁論部
学習院大学輔仁会弁論部
國學院大学辯論部
国士舘大学言道部
第一高等学校・東京大学弁論部
拓殖大学雄弁会
中央大学辞達学会
帝京大学雄弁会
東京農業大学農友会講演部
日本大学雄弁会
防衛大学校校友会弁論部
法政大学弁論部
明治大学雄辯部
早稲田大学雄弁会
立命館大学弁論部